プロ馬券師になりたい。

しょうらいのゆめはぷろばけんしです。※本気で競馬で勝つことを考えるためのブログです。

【サイレンススズカ】沈黙の日曜日から20年 生涯を振り返る【2万字】

サイレンススズカ

モケです。今回は馬券術でも予想術でもないおはなし。2万字を超える記事になってしまったから、時間がある時に是非読んでもらいたい。

逃げて差すという信じがたい脚質。スタートからゴールまでこの馬には誰も追いつけない。そんな唯一無二の走りで人々を魅了した、あの名馬について今回は書きたい。

実際に会ったことがあるわけでもない。この目で生の走りを観たこともない。現役時代を知らないこんな俺だけど、サイレンススズカには比類なき思い入れがある。

この馬を見て、競馬の面白さを知った。この馬を見て、競馬が好きになった。この馬の生き様を見て、この馬のように生きたいと願った。

サイレンススズカは俺の憧れであり、俺の夢だ。

本日11月1日は、サイレンススズカの命日。その影に追いつくことすら誰にも許さぬまま、20年前の今日、秋の天皇賞のレース中の事故により予後不良の診断を受け、この世を去った。

今回の記事ではサイレンススズカの歩んだ道を事細かく記すとともに、彼に対する俺の思いを綴っていきたい。

サイレンススズカの20回目の命日である今日、彼についての記事を書かずにはいられなかった。彼への敬意を最大限に表しつつ、丁寧に、記していきたい。

サイレンススズカの誕生

サイレンススズカは1994年5月1日稲原牧場にて父サンデーサイレンス、母ワキアの間に産まれた、ワキアの2番目の子。ワキアが産んだ全4頭のうち、サンデーサイレンス産駒はサイレンススズカのみだった。

ワキアは、稲原牧場の稲原美彦氏が橋田満調教師とアメリカに行った際に、現役時代の走りを見て橋田満調教師に薦められ購入を決めた牝馬だ。1000m~1200mを中心に走り、生涯成績19戦7勝で、スピードに魅力があるスプリンターだった。

ちなみに橋田満調教師の薦めで購入を決めたように、ワキアの産駒全4頭は全て橋田満厩舎に預けられた。

1992年、輸入して初の種付けはダンスオブライフが選ばれ無事に初仔を産んだ。1993年、2年目の種付けにサンデーサイレンスが選ばれ、サイレンススズカが誕生した。

ワキアは3年目、4年目にはコマンダーインチーフが種付けられ無事出産する。しかし5年目、ブライアンズタイムと配合され受胎もしたが、1996年8月に腸捻転が原因で亡くなってしまったため産駒は4頭のみとなってしまった。

サンデーサイレンスの種付けに関しては、2つの話があり、どちらが正しいのか、はたまたどちらもが正しいのか、それはその当時実際に関わった人にしか分からないため、両方を記載したいと思う。

1つ目の話

ワキアの2年目の種付けとして、当初はバイアモンが選ばれたが受胎しなかった。そしてその後の選択肢としてバイアモンをまた種付けるのか、それとも他の種牡馬を種付けるのか、配合の実務を担っていた稲原美彦氏は悩んだ。

稲原美彦氏は当時足の骨折で入院中で、そのために考える時間がたっぷりとあった。そこで思い付いたのが、ミスワキ(ミスタープロスペクター系)を父に持つワキアには、ヘイロー系の種牡馬が合っているのではないかという考え。

その考えに導き出された先が、当時日本での種付け3年目でまだ産駒がデビューしていなかった、あのサンデーサイレンスだった。まだサンデーサイレンス産駒の成功は未知数であり、それはある種の賭けであったのかもしれない。

サンデーサイレンスを種付ける考えが浮かんだ稲原美彦氏は、社台スタリオンステーションにすぐに病室から電話をし、サンデーサイレンスを種付けられるかの相談をしたという。

そして無事に種付けが行われ、翌年に産まれたのがサイレンススズカだった。というのが1つ目の話。

2つ目の話

ワキアの2年目の種付けとしてバイアモンが選ばれたが、2度種付けをして2度とも受胎することが叶わなかった。そこで当時クラシック戦線で大活躍していて、その種付け権利を持っていたトニービンをワキアに種付けることにした。

ところがワキアが発情したとき、トニービンには先約がありその日トニービンを種付けることが出来なくなってしまった。そこで社台スタリオンステーションから掛けられたのが、「サンデーサイレンスなら空いている」という言葉だった。

サンデーサイレンス産駒はまだデビューしておらず未知数だったが、ワキアはその年既に2度受胎に失敗しており、次いつ発情するのか分からない状況だったため、稲原牧場はサンデーサイレンスの種付けを決めたという。

そして無事受胎し、翌年に産まれたのがサイレンススズカだった。というのが2つ目の話

どちらが真実か

この2つの話のうちどちらが真実なのか、はたまたどちらもが真実なのか、俺には分からない。

それは分からないが、バイアモンとの種付けの受胎失敗や、稲原美彦氏の入院や、トニービンの予定が合わなかったがたまたまサンデーサイレンスが空いていたことなど、どちらの話だとしても、偶然が積み重なった結果がサイレンススズカ誕生であったことは間違いない。

どちらの話が真実だったとしても偶然が起こらなければ、サンデーサイレンスの種付けには至らなかったのだ。サイレンススズカは、その偶然が無ければ産まれてこなかった。その偶然は、後から思えば運命だったのかもしれない。

レースデビューまで

1994年、5月1日というサラブレッドにしては遅い時期に産まれたサイレンススズカは、デビュー時馬体重436kgからも分かるように、小柄で牝馬のような馬体で大人しくて人懐っこく、稲原牧場ではワキちゃんという愛称で呼ばれ可愛がられた。

競走馬としてはこれといって特徴のない馬体だったが、一つだけ特徴があり、鹿毛の母ワキアと青鹿毛の父サンデーサイレンスとの配合なのに、サイレンススズカは栗毛だった。

一般にはサラブレッドの毛色は父と母の毛色によって決まる。「父が名種牡馬の場合、父と同じ毛色の方が強い馬になりやすく、父と違う毛色になると走らない」という言い伝えや、「栗毛の両親以外から産まれた栗毛は走らない」などという言い伝えがあり、サイレンススズカの栗毛という毛色については、牧場の関係者は若干の不安を感じることもあったという。

また、デビューしてからも続くことになる、馬房をクルクルと左回りに旋回するというクセはこの頃からもう始まっていた。この頃はゆっくりだった旋回が、デビュー後成長してからは速く旋回するようになった。

人の言うことを聞かない馬を、雪が降る冬にわざと雪の深いところに入れ身動きを取れなくし、人に反抗する気持ちを失くさせるということがよくあるが、雪の深みをものともせず進むサイレンススズカには効果がなかった。

サラブレッドにしては遅い5月という時期に産まれたため成長が遅かったサイレンススズカは、焦らずにゆっくりと育てられた。やはりこれといった特徴が無く目立ったタイプではなかったが、身体の柔らかさだけは相当なもので、牧場では「そこそこは走ってくれるだろう」程度の評価だった。

だが競走馬になるための調教を積むために二風谷軽種馬育成センターに移ってから、その評価は良い意味で覆されることになる。ちなみにここはあのトウカイテイオーが育ったとして有名な場所だ。

二風谷軽種馬育成センターで3歳秋(現2歳秋)まで過ごしたが、そこでサイレンススズカに乗った乗り役たちは、口々にその凄さを語った。「とにかくバネが凄い」「これは走る」「重賞もいける」「ダービー、三冠もありえる」サイレンススズカの評価は日を重ねるごとに高まっていった。

だが入厩が近付いたある日、調教中に足をぶつけて外傷を負ってしまった。怪我自体は大したことはなかったものの、入厩が遅れてしまい立てていた予定は大きく狂ってしまった。

3歳の冬(現2歳の冬)にワキアを薦めた橋田満厩舎に入厩し、調教ではオープン馬に先着する抜群の走りや、坂路で抜群の時計を出す走りを見せ、すぐに周囲を驚かせる存在となった。

また、調教で早い時計を出しても、調教後は息一つ乱れずに落ち着いた様子だったという。

それでも入厩は遅れていたため、デビュー戦は4歳の2月(現3歳の2月)まで待たなければいけなくなった。

サイレンススズカ全レース

サイレンススズカの全レースを振り返ろうと思う。全レースに関して、出来る限りのことを書いていくが、動画を貼り付けることはしない。動画がいつ削除されるか分からないからね。

1レース1レース、レース内容や関係者の話などを踏まえてしっかりと書いていくから、気になったレースは調べて観てみるといいのでは。

4歳新馬『これは強い!稽古通りの強さ!』

デビューは4歳(現3歳)の2月1日、京都芝1600mだった。鞍上は上村洋行騎手で、抜群の調教を見せていたことから、単勝1.3倍の抜けた1番人気に推された。

上村洋行騎手は神戸新聞杯まで継続騎乗することになるのだが、橋田満調教師が海外修行から帰ってきた上村洋行騎手のために取っておいてくれたのが、このサイレンススズカだったという。上村洋行騎手は、武豊騎手の次にサイレンススズカの背中をよく知る騎手だろう。

上村洋行騎手はサイレンススズカの調教で初めて坂路で早い時計を出した時に、「とんでもない化け物に出会った」と感じたという。デビュー戦のレース前は、「馬なりで何馬身差で勝てるか」を考えるほどだった。

だがそれとともに、サイレンススズカの繊細さも感じたという。上村洋行騎手は後にこの出会いを振り返って、本当の意味で馬との接し方を教わったと語っている。

デビュー戦の馬体重は小柄で436kgしかなかった。小柄といえば引退レースの有馬記念時に438kgしかなかったディープインパクトが思い浮かぶが、凄まじいバネを持つ名馬にとっては馬体重は関係無いのかもしれない。

好スタートから、スピードの違いから押さずに逃げる形に。楽な手応えのまま4コーナーを迎え、そのまま全く追わずに、ムチを使うこともなく7馬身差の圧勝。楽勝。

実況で『稽古通りの強さ』と言われるほど、やはり調教での走りは注目を集めていた。しかも2着のパルスビートはその後、重賞で2着3回3着1回の実力馬。決して弱い相手関係ではなかったが、サイレンススズカの圧倒的スピードは新馬戦の頃から群を抜いていた。

新馬戦で強い勝ち方をする馬というのは少なくないが、本当に全く追わずに、追うアクションすら見せずに後ろを突き放すという強さは、そう観られるものではない。

それまでのクラシック戦線の勢力図を一気にひっくり返してしまうような、衝撃的なデビューだった。

弥生賞 ゲートをくぐって大外枠に、そして大出遅れ

 新馬戦を大楽勝したサイレンススズカは、その期待度の高さとデビューが遅れたということが相まって、キャリア1戦ながら皐月賞トライアル弥生賞に挑戦することになった。

キャリア1戦という実績薄の馬ながら、直前まで1番人気に推され最終人気は単勝3.5倍の2番人気。デビュー戦がいかに衝撃的だったかがこの人気からも伝わってくる。

馬体重は新馬戦時から8kg減って428kg。小柄のため使い減りは心配だが、それよりも心配だったのが精神面だった。

上村洋行騎手がこの馬のポテンシャルを感じるとともに繊細さも感じたように、サイレンススズカはメンタル面ではまだまだ強い馬とはいえなかった。

そしてその心配が、まさにそのまま的中してしまう。5枠8番の偶数馬番でのゲートインではあったものの、ゲート内で落ち着くことができず、騎手を落としながらゲートをくぐり抜けてしまった。

デビュー前の話でサイレンススズカが人懐っこい性格だったと書いたが、それが裏目に出てしまったのかもしれない。ゲートに入ってから担当厩務員の加茂力氏が離れていくのが寂しくて、ゲートをくぐり抜けてしまったらしい。

なんともサイレンススズカの人懐っこい可愛さを表すエピソードでもあるのだが、この落馬によって上村洋行騎手は右脚を負傷してしまった。

YouTubeなどで映像を見てもらえば分かるが、この傷はかなりのもので上村洋行騎手はしばらくの間立ち上がることすら出来なかった。それを受け岡部幸雄騎手が乗り替わりの準備をしていたという。

そんな状況でなぜ乗り替わらずに自身が乗ることを決めたのかを、上村洋行騎手は後に「岡部さんがサイレンスに乗ったら絶対に惚れ込んで、取られてしまう」と思ったからだと語っている。

怪我をした状況で重賞に乗るという行為はあまり褒めたくないが、それくらい上村洋行騎手はサイレンススズカに惚れ込んでいた。サイレンススズカに乗れば誰もが惚れ込んでしまう、そんな風に思っていたという。

ゲートを潜り抜けてしまったサイレンススズカだが、幸か不幸か、牧場時代から一目置かれていたその身体の柔らかさのおかげで馬体に異常はなく、大外馬番に移されてレースに臨む事となった。

2度目のゲートインは無事に済んだが、サイレンススズカの心理状態か、はたまた上村洋行騎手の怪我の状態か、何が原因かは不明だがゲート内ではまた落ち着かず、大出遅れでのスタートとなってしまった。

7,8馬身、いや10馬身近い出遅れだろうか。スタートした瞬間に誰もが終わったと分かるような大出遅れ。

だが、そのままでは終わらないのがやはりこの馬のポテンシャル。道中スルスルと位置を上げていき、勝負所ではそれまでの消耗さえなければ前の馬を捕らえていたと言えるような位置にいた。

結局大出遅れが響いて8着となってしまったが、サイレンススズカのポテンシャルを人々に再認識させるようなレースぶりだった。そして、サイレンススズカの精神面の危うさも人々に認識されることとなった。

このレースに敗れゲート再試験になったサイレンススズカは、皐月賞出走は諦めるしかなかった。

4歳500万下 再びの圧勝

皐月賞を諦めた陣営の次の目標はやはりダービーだった。そのためにまず4歳500万下(現3歳500万下)を勝たなければいけない。馬体重は少し戻って前走比プラス6kgの434kgでの出走となった。

雨が降る重馬場でのレースとなったが、前走の敗北を見てもサイレンススズカへの期待はやはり変わらない。1.2倍の圧倒的人気に推された。

前走でサイレンススズカの繊細さを改めて感じた上村洋行騎手は、今回のレースではサイレンススズカの気持ちを尊重して走らせることに決めた。

本当は道中は我慢させて脚を溜めて直線で爆発させるような競馬をしたかったのだが、それはサイレンススズカの精神状態ではまだ早いという判断を下した。

そのため、レースはサイレンススズカの行く気に任せて馬なりで逃げる展開。新馬戦と同じだ。新馬戦とは違い直線は追うことになったが、それでも2着に7馬身差を付ける楽勝。

プリンシパルS 万全ではない状態での勝利

500万下を圧勝したサイレンススズカが次に目指したのは、ダービートライアル青葉賞だった。だが、ここで思いもよらぬ事態が起こる。

青葉賞のまさにその週の火曜日、左前脚の球節に腫れが見つかった。調教によって腫れたようで、これにより青葉賞は回避せざるを得なくなった。

この腫れ自体は大したことがなく、1週間は調教を積めなかったが翌週の火曜日には調教を再開できるようになっていた。そしてこの調教を再開できるようになった週に開催されるレースが、プリンシパルSだった。

サイレンススズカがダービーに出走するためには、もはやこのプリンシパルSで2着以内に入り優先出走権を得る他なかった。

「これだけの才能を持つ馬なのだから、ダービーは何としてでも走らせたい。」これが、調教師や馬主が持つ当然の思いだろう。

ただ、サイレンススズカの背中をよく知る上村洋行騎手は、順調な調教を踏めていないこの状況では、プリンシパルSは出走するべきではないと考えていた。それを若手騎手ながら橋田満調教師に伝えたが、一蹴されたそうだ。

それでも、サイレンススズカの精神状態を考えた上村洋行騎手は調教では軽い時計しか出さなかった。しかしそれが原因で、ダービー前の調教では乗せてもらえなくなってしまう事になる。

そうしてダービー出走権を得るためにプリンシパルSに出走することになったサイレンススズカは、レースでは弥生賞勝ち馬のランニングゲイルに次ぐ2番人気に推された。単勝オッズは同じだったから、それだけやはり期待を受けていたということだ。

このレースでは、圧勝した新馬と500万下とは違い逃げを打たなかった。そもそもが逃げようとして逃げていたわけではなかったし、今回のレースでは外枠から逃げる馬がいたためその馬の後ろでの競馬となった。

そのためか、道中ではかかったシーンが多く見られるが、それでも直線はしっかりと伸びて2着にクビ差の勝利。この2着馬はその年の菊花賞馬マチカネフクキタル、そして3着は弥生賞勝ち馬ランニングゲイルという決して低いメンバーレベルではなかった。

しかもサイレンススズカは左前脚の球節の腫れのため、1週間調教が出来なかった状態だった。そんな状態で、このメンバー相手に勝利。サイレンススズカの強さは、大逃げというスタイルを確立してからの評価を受けることが多いが、完成する前のこの頃から抜けていたということが分かる。

こうしてサイレンススズカは、万全の状態ではないにも関わらず見事プリンシパルSを勝ち切りダービー出走権利を得た。精神面の心配はもちろん抱えたままだったが。

日本ダービー まだ誰も理解できていなかった

プリンシパルSの前の調教で緩く走らせてしまったせいで、調教の鞍上から降ろされてしまった上村洋行騎手。そして、サイレンススズカは橋田満調教師の思惑通り一杯の仕上げがなされた。

上村洋行騎手はサイレンススズカの精神面を考えて、調教では一杯一杯にさせずに緩ませることでONとOFFをはっきりさせようとしていた。ダービーはこれまでのレースとは、その部分で仕上げ方が大きく異なるレースとなった。

その影響が、どう出るのか。それがはっきりと分かるレース内容となった。良くも悪くも、このダービーのレース振りによって、サイレンススズカは自身のペースで逃げるという競馬を確立していくことになる。

レースは4番人気4枠8番、馬体重は432kgだった。馬体の状態としては好状態だったのだろう、前走比プラスマイナス0kgだった。

このレースでは、前走控えて勝てたことを踏まえてまた控える競馬をした。これは、上村洋行騎手・橋田満調教師どちらもの意見が一致した競馬だったようだ。皐月賞馬サニーブライアンの逃げ宣言も影響していたことだろう。

しかしそれが、一杯に仕上げられて、ただでさえメンタルに不安のあるサイレンススズカにはまず無理な乗り方だった。

一杯に仕上げられ、カリカリし、しかもダービーという大熱狂。あの圧倒的スピードを持つサイレンススズカが、そんな状況下で他馬に合わせて控えることなどただただスタミナを消耗するだけだった。

レースは無理やり抑えて3番手に控えさせるも、サイレンススズカは行きたがる様子で、4コーナー手前までずっと騎手と喧嘩しているような有様だった。

そんな体力を消耗する競馬をして、最後の直線で脚を使えるわけがない。一瞬、もしかするとという手応えを見せるも、結果は直線でズルズル下がっていき9着。

ダービーに出走するために厳しいローテーションを組んできたが、それらが裏目に出てしまった。サイレンススズカは、厳しい調教を積んでその期待に応えられるような、そんなメンタルはまだ持ち合わせていなかった。

また、前走のプリンシパルSで状態が微妙な中、控えて勝ってしまったことが災いした。後々になって分かるように、サイレンススズカは控えて溜めるよりも、マイペースに行かせた方が明らかに強い競馬ができる馬だ。

そのことを、ダービー時に理解できている人間はまだ誰もいなかった。『逃げて差す』という後にも先にも存在しない脚質だから、仕方がないことなのだが。

ダービー後、サイレンススズカは放牧に出た。

神戸新聞杯 騎乗ミスによる敗北

放牧から帰ってきたサイレンススズカは、神戸新聞杯から天皇賞・秋を目指すローテーションが組まれた。菊花賞は距離が厳しいという判断だろう。

放牧から帰ってきて、馬体重は神戸新聞杯出走時の438kgから分かるようにふっくらとしてきたが、精神面ではそれほどの成長は見せていなかったという。

ダービー時のピリピリした感じがまだ残ったまま放牧から帰ってきて、サイレンススズカが完全にリフレッシュするにはもっと時間が必要だったと、後に上村洋行騎手は語っている。

それでも調教は順調にこなされ、神戸新聞杯を迎えた。

レースは、ダービー2着馬シルクジャスティスや、後の菊花賞馬マチカネフクキタルを抑えて1番人気に推された。

そして今回のレースでは、ダービーで相当かかってしまったという反省を踏まえて、サイレンススズカが行きたがるのならその気持ちを尊重した競馬をしようという作戦になった。

もちろんサイレンススズカはスピードの違いから逃げる形に。抜群の手応えのまま4コーナーを迎え、直線ではもう勝ちが決まったかのような差を付けていた。

だがそこで、鞍上の上村洋行騎手がこの馬の鞍上をクビになるような騎乗ミスを犯してしまった。直線の半ば過ぎ、勝ちを確信した上村洋行騎手は追う手を緩めて、馬なりで流してしまったのだ。

これは完全に油断騎乗。ただ、上村洋行騎手はこの行動は次の天皇賞・秋のためにサイレンススズカにダメージ(主に精神面だろう)を残さないように起こしてしまったと語っている。

ともあれ、その騎乗ミスが明らかに影響して、結果はマチカネフクキタルにゴール前で差されての2着。この騎乗ミスで、上村洋行騎手はデビュー戦から脚を怪我した時でさえ譲らなかったサイレンススズカの鞍上から降りることになってしまった。

上村洋行騎手の話が出てくるのはここまでだから、ここで一つ上村洋行騎手のコメントから。上村洋行騎手はサイレンススズカに、溜めて弾けさせるレースを覚えさせたかったようだ。そして、もしそれが叶っていたら、どれだけの名馬になっていたのだろうとも語っている。

だがそれに関しては、俺は疑問に感じる。サイレンススズカはあの大逃げというスタイルを見出せたおかげで自身の才能を最大限に発揮できるようになった訳であり、あの絶対的スピードを殺すことになる溜める競馬はサイレンススズカには合わなかったのではないだろうか。

申し訳ないがこの発言を知った時は、最終的に武豊騎手が乗ることになったおかげでサイレンススズカの伝説が出来上がったんだろうなと思った。

ただサイレンススズカの伝説の序章に、上村洋行騎手が大きく携わっていることには変わりない。怪我を押してまで乗ったほど惚れ込んでいたサイレンススズカから降ろされたことは、当事者にしか分からない悔しさだったことだろう。

上村洋行騎手のブログは何度も参考にさせていただいた。

ameblo.jp

天皇賞・秋 初めての大逃げ

鞍上が河内洋騎手に乗り替わり、天皇賞・秋で初めて古馬との闘いを迎える。4歳馬(現3歳)ながら4番人気に推された。

このレースでの不安点は、やはり乗り替わりだろう。サイレンススズカは何度も言うように繊細な馬だった。それまでレースではずっと上村洋行騎手が乗ってたため、サイレンススズカにとって初の乗り替わりだった。

だがその不安は、それほど必要のない心配だった。河内洋騎手はサイレンススズカの行きたい気持ちに任せ、1000m通過タイム58.5秒という、2番手以下を大きく離す大逃げを打った。

サイレンススズカにとって、初めて本当に自身の行きたい気持ちのまま行かせてもらえたというレースだろう。残り300m地点で交わされてしまって結果は6着だったが、あの大逃げからしっかりと終いまで走り切っていて、『逃げて差す』競馬のイメージを膨らますことができるような内容だった。

また、これは後になってから言えることだが、この時の敗因はまだ息の入れ方を分かっていなかったことが挙げられるだろう。どれだけサイレンススズカが高い能力を持っていても、2000mを全く息を入れずにガムシャラに走って突き放して勝つというのは難しい。

まだこの当時は、大逃げというスタイルこそは見せたものの「走ることが好きで、走ることに対して真面目」という、そんなサイレンススズカの性格と圧倒的なスピードがあったというだけのレース内容だった。

息を入れるということを覚えてから、サイレンススズカはまさに『影さえも踏めぬ存在』になっていく。それはまだ先の話だが。

マイルCS 生涯最悪の大惨敗

秋の天皇賞の後は京阪杯(当時は京都1800m)を予定していたが、香港国際カップに選出されたことから、予定を変更して急遽1週早いマイルCSに向かった。

だがこのレース、もしかすると状態は悪かったのかもしれない。入厩前から、馬房内で左回りに旋回する癖があったということは既に書いたが、それがこの頃になるとかなり速い速度で旋回するようになっていた。それを見た担当厩務員の加茂力氏が、壁にぶつかって怪我をしてはいけないということで強硬手段として、馬房内に畳を吊るして旋回できないようにしたのだ。

旋回できなくなったサイレンススズカはイラついたように見えたという。これが原因なのか中2週のローテーションが原因なのかは定かではないが、パドックからイレ込んでしまった。

河内洋騎手の継続騎乗であったが、今回はキョウエイマーチが速い逃げを見せたからだろうか、2番手で敢えて抑えるような競馬をした。そして馬は騎手と喧嘩。こうなってしまってはサイレンススズカは力を出せないことは既に分かっている。

結果は15着という大惨敗。おそらくこの結果を受けて、サイレンススズカの適正距離を1800m~と言う人もいるが、それは誤りだろう。ローテーション・状態・競馬内容全てがあまりにも微妙と言わざるを得ないレースだった。

香港国際カップに選出されたことから、そこの日程に合わせるためにマイルCSに向かったという道理は分かるのだが、もっと大事に使ってあげて欲しかったというのが正直な感想だ。

レース後、サイレンススズカの馬房に吊るされていた畳は取り外されたという。

香港国際カップ 伝説の幕開け

『伝説の幕開け』と題させてもらった。サイレンススズカの伝説の幕開けは人により受け取り方が様々だと思うが、サイレンススズカは武豊騎手がまたがった事でようやく完成へと向かったと俺は思っている。そういう意味で、『伝説の幕開け』とさせてもらった。

天皇賞・秋、マイルCSと鞍上を務めた河内洋騎手は香港国際カップの日に既に先約があったため、他の騎手を探す事になった。そこに、本来は依頼が来るのを待つ立場である騎手から申し出があった。それが武豊騎手だった。

新馬戦の頃からサイレンススズカに注目していた武豊騎手は、鞍上が空いているというチャンスを見逃さずに申し出た。騎手から乗りたいと申し出ることは通常はない。しかも、武豊騎手はそれまで橋田満厩舎の馬に乗ったことすらなかった。

それなのに乗りたいと申し出るほど、騎乗する前からサイレンススズカの走りに魅力を感じていたのだ。サイレンススズカの新馬戦で武豊騎手は他の馬に乗っており、後ろから見ていてその天才的スピードに魅了されたのだという。

レースでは、まさにサイレンススズカが行きたいように行かせた。その結果芝1800mというこのレースで、1600m通過タイムが同日に行われた香港マイルのゴールタイムを上回る時計での逃げを打ち、最後は垂れてしまったが結果は5着。

5着に敗れてはしまったものの、見せ場十分でサイレンススズカの力をしっかりと出せたレースだった。今後の飛躍を期待するには十分なパフォーマンスだったと言えるだろう。

デビューからの鞍上を務めていた上村洋行騎手が、この馬に乗れば誰もが惚れ込むと語っていたように武豊騎手もこの馬に惚れ込んだ。そしてこのレース以降、先約があった宝塚記念を除く全レースに武豊騎手が騎乗した。

この香港国際カップでの武豊騎手による騎乗によって、サイレンススズカの大逃げというスタイルが確立されたということは言うまでもない。

これまでの敗北がその才能を発揮することが出来なかったがゆえの敗北のようにも見え、もっと早く大逃げを確立してくれていれば・・・なんて思ってしまうのはファンの心理だろう。

サイレンススズカは武豊騎手に出会うまで才能を持て余していた。たまたま武豊騎手に出会ったタイミングが完成の時期だったのかもしれないが、武豊騎手が騎乗する事になってようやく、その才能を存分に発揮することができるようになったのは間違いない事実だ。

バレンタインS 圧勝劇の始まり

12月の香港国際カップを終えて、5歳(現4歳)になった緒戦にはバレンタインSを選んだ。馬体重は434kg、単勝1.5倍の抜けた1番人気に支持された。

レースはサイレンススズカの行きたいように行かせる大逃げ。1000m通過タイムは57.8で、それでいて4馬身差での勝利。

ただ最後少し詰められてしまったのは、まだ息を入れるということがイマイチ出来ていなかったからだろう。息を入れることを覚えて、『逃げて差す』という脚質が完成するのはまだもう少し先の話。

サイレンススズカとしては、自分の行きたいように走れて、それでしかも勝って担当厩務員や騎手や調教師に褒めてもらえて、最初から最後まで気分が良いというレースを初めて出来たのだろう。

息を入れることはまだイマイチだったものの、マイペースの大逃げをして勝つという気分の良い体験によって、道中で息を入れても大丈夫なんだと知ることができた。

これを踏まえると、やはりサイレンススズカの完成には武豊騎手は切っても切り離せない存在だったと思う。

中山記念 課題の残る重賞初制覇

意外な事に、これが重賞初制覇。皐月賞馬イシノサンデーや重賞勝利実績のあるローゼンカバリーなどのメンバーが揃ったレースだったが、サイレンススズカはここでも1.4倍という抜けた1番人気に支持される。あの弥生賞以来となる中山競馬場でのレースだった。

この時から、今年の目標を秋の天皇賞に定めていた。あの秋の天皇賞に。

レースでは、やはり大逃げを打つ形に。大逃げというと普通は一か八かの博打のような戦法なのに、サイレンススズカの大逃げには安心感があるから不思議だ。

一度は7,8馬身ほどの差を付ける大逃げを打つも、4コーナーではその差が3馬身ほどに縮まってしまい、直線は珍しく追い通しだった。

それでも直線はしっかりと粘って2着には1と4分の3馬身差を付けての勝利。サイレンススズカには珍しい辛勝だったと言えるだろう。

この重賞初勝利に鞍上の武豊騎手はイマイチ納得した表情は見せず、「もう少し折り合いが付くようにならないと距離が伸びてからは難しい」と語った。サイレンススズカの能力はまだまだこんなもんじゃないと言いたいような表情が印象深い。

また、このレースでサイレンススズカには左回りの方が合っているということが明らかになった。

小倉大賞典 逃げて差す競馬のお披露目

この年の小倉大賞典は、小倉競馬場の改修に伴い時期をズラして中京競馬場で行われた。この先の金鯱賞を春の目標に置いていて、そのための1戦というレース選びだったのだろう。左回りということで自信もあったはずだ。

重賞勝利実績があるため57.5kgというトップハンデになったが、ここでもやはり1.2倍という抜けた1番人気に推される。

レースは、もちろん大逃げ。ただこのレースでは、サイレンススズカが息の入れ方をだいぶ分かってきていたようだった。4コーナーで一旦後ろを引きつけ、直線では実況が『先頭はサイレンススズカ!また突き放した!』というように、『逃げて差す』競馬をやってのけた。

トップハンデを背負いながら、大逃げして2着に3馬身差の楽勝。そしてさらに、レコードタイム。これはもう、サイレンススズカがその才能を発揮できるようになったと言えるだろう。

この次のレース、金鯱賞がその鮮やか過ぎる勝ち方から有名になっているが、この小倉大賞典から、『逃げて差す』という唯一無二の脚質はほとんど完成していたように思う。

金鯱賞 連続でのレコードタイム

香港国際カップから4戦続けて1800m戦を走ってきたサイレンススズカが、距離を伸ばして2000mに挑戦したのがこの金鯱賞。その距離不安も囁かれていた。ちなみに安田記念への登録もあったものの、中距離路線を目指すとして出走は回避している。

中山記念の時から、今年の春の目標はここ金鯱賞に置かれていた。左回りの2000mということと、『スズカ』の冠名で有名な馬主の永井啓弍氏の地元レースだったことも理由だっただろう。

菊花賞からの休み明けで臨む4連勝中のマチカネフクキタルや、重賞含む5連勝中のミッドナイトベット、重賞含む4連勝中のタイキエルドラドなど、メンバーが揃った1戦で、サイレンススズカは1番人気ではあったものの単勝オッズ2.0倍という、今から思うと美味しすぎるほどのオッズだった。

また、注目したいのが馬体重だ。ここにきて前走比プラス8kgの442kg。ようやく馬体が成長してきたといっていいだろう。実際、この後の宝塚記念にもプラス体重で出走する事になる。

この時サイレンススズカは5歳。現在でいう4歳だ。4歳の春の時期にこのように馬体が増えてくるということは、晩成寄りだったのではと俺は思う。もしこの時期に無理させることなく、このレース後休ませてあげていたら、サイレンススズカの快進撃は天皇賞・秋を通過点としていたのではないだろうか・・・。

レースは、もちろん大逃げ。そしてこのレースで今までと違う点は、このレースでは完全に息を上手に入れられていたということ。4コーナーで7,8馬身ほどだった差が、ゴールする頃には10馬身以上まで広がっていたという、まさに『逃げて差す』競馬をした。

重賞では非常に珍しい大差勝ち、メンバーも決して弱かったわけではない、その上さらにレコードタイムという、凄まじい走りをこのレースでは魅せてくれた。

サイレンススズカのベストレースとしてこのレースを挙げる人も少なくないだろう。

宝塚記念 乗り替わりでもG1初制覇

もうすでに年が明けてから4戦も使っていて、当初の春の目標が金鯱賞だったことから金鯱賞後は放牧に出される予定だった。だが陣営は、ファンの期待と体調の良さから、宝塚記念に参戦することを急遽決めた。

この決定が急遽だったことは、鞍上の乗り替わりを見ても分かる。もともとサイレンススズカに宝塚記念を走る予定が無かったことから、武豊騎手はエアグルーヴの騎乗依頼を早々に受けていた。実際にはエアグルーヴの宝塚記念出走は最終追い切りまで迷われていたそうだが、その追い切りが好状態であり出走が決まった。

もちろん武豊騎手はサイレンススズカとの間で心が大きく揺れたが、エア冠名と武豊騎手のコンビは今でもよく見かけるように武豊騎手と関係の深い馬主で、先約を断ることができなかった。

そのためこのレースでは、サイレンススズカの鞍上は南井克巳騎手に乗り替わりとなった。このころはもう息の入れ方が分かっているように、サイレンススズカの精神面は成長していて、サイレンススズカの行きたいように走らせられれば乗り替わりもそれほど不安要素にはならなかった。

ファン投票では6位に選ばれ、前走天皇賞・春まで4連勝中のメジロブライト、前年のオークスと天皇賞・秋の勝ち馬エアグルーヴ、前年の有馬記念勝ち馬シルクジャスティスなどのメンバーが揃う中、2.8倍の1番人気に推された。

1番人気でも抜けた人気にならなかったのは、天才武豊騎手が同レースでエアグルーヴに乗っていての乗り替わりだったということと、2200mへの距離延長に対する不安が影響したのだろう。

馬体重は前走に引き続きプラス体重での出走。前走比プラス4kgの446kgで過去最高馬体重だった。陣営が体調が良くて出走を決めたというのも頷ける。ただ、これだけ使ってきているにも関わらず馬体重が増加しているということは、明らかにサイレンススズカはこのとき成長期だった。休ませてあげて欲しかった。

レースは、鞍上が乗り替わってもやはり大逃げという形。1000m通過タイム58.6のハイペースで一度は10馬身差ほどまで大逃げするも、4コーナーで後ろを大きく引き付けるという、これまでの圧勝劇をしてきた武豊騎手とは違う競馬内容。

それでも、2着のステイゴールドを4分の3馬身差振り切ってG1初制覇。3着には武豊騎手騎乗のエアグルーヴが入った。

このサイレンススズカのG1初制覇だが、「着差が僅かの辛勝であり、逃げ馬に有利なグリーンベルトのおかげで勝てた」という意見を持つ人もいる。

確かに、グリーンベルトがサイレンススズカに有利に働いたことはその通りだが、2200mという距離不安があるなか、苦手な右回りでのG1勝利なのだから十分に評価できる内容だろう。

また、着差が僅かといっても2着ステイゴールドとの差は最後の直線で全く縮まらなかった。つまり差し馬と同じ脚を直線で使っていたという事になる。あれは、決して縮まることがない4分の3馬身という着差だったのではないだろうか。

南井克巳騎手の騎乗に関しては、サイレンススズカファンの中でも賛否が分かれる。

「4コーナーでも大きくリードするいつもの競馬をしていれば、もっと楽勝だった」という考え方と、「4コーナーで引き付ける競馬を経験したからこそ、毎日王冠のあの走りが出来た」という考え方だ。

どちらも一理あると思う。ただ、苦手な右回りかつ距離不安を抱える2200mで『逃げて差す』というこれまで経験したことが無い脚質の馬に、テン乗りで見事勝利した南井克巳騎手の騎乗は好騎乗と言ってよいのではないだろうか。

まあそれでも、この宝塚記念での騎乗はサイレンススズカの才能を最大限に発揮できる騎乗ではなかったとは思う。

また、一部では「誰が乗っても勝てると言われてしまうサイレンススズカの脚質」で、敢えて武豊騎手と違う乗り方をした事で南井克巳騎手の意地を見せたとも言われている。

急遽の参戦ではあったものの晴れてG1馬になったサイレンススズカは、中山記念時から決めていた今年の大目標である天皇賞・秋に向かう事になる。

毎日王冠 どこまで行っても逃げてやる

前走の宝塚記念を走った時から、秋は毎日王冠から天皇賞・秋と予定を立てていたが、調教不足などを理由に毎日王冠は回避することが検討されていた。

だが、毎日王冠にあの2頭が参戦することで、出走を決める。どちらも当時無敗の4歳(現3歳)外国産馬だった、グラスワンダーとエルコンドルパサーだ。

毎日王冠を回避することで、「無敗のグラスワンダー・エルコンドルパサーに負けることが分かっていて逃げた」という印象を世間に与えてしまうことを陣営は恐れ、出走を決めた。

当時グラスワンダーは前年のG1朝日杯3歳S(現朝日杯FS)まで無敗の圧勝劇を繰り広げたが、骨折し休養を余儀なくされ今回がその復帰戦だった。

エルコンドルパサーは、怪我は無かったものの当時外国産馬がクラシック競走に出走することは出来なかったため、G1NHKマイルに出走するというローテーションからの、秋のG1戦線に向けた緒戦だった。

グラスワンダーはこの年の有馬記念を勝利し翌年に連覇を達成、エルコンドルパサーはこの年のジャパンカップを勝利し翌年は凱旋門賞2着という実績を残したことは、わざわざ語るまでもない。

この年の毎日王冠には、G2にも関わらず13万人もの観客が押し寄せた。それくらい、この連勝中の3頭の対決は注目を集めたということだ。

別定戦のためサイレンススズカの斤量は59kg、エルコンドルパサーは57kg、グラスワンダーは55kgだった。それにも関わらず、サイレンススズカはやはり抜けた1番人気の単勝オッズ1.4倍。

よくサイレンススズカは死んだことで伝説になったという話をする人がいるが、当時のこの人気ぶりを見ると本当にそうだったのかと疑問に感じる。「サイレンススズカは本当に誰も追いつけないところまで逃げてしまった」という考え方はとても好きなのだが。

休み明けで、もちろん馬体重もプラス。前走比プラス6kgの452kg。新馬戦が436kgだったのだから、晩成型の馬体がようやく完成したと言えるのだろうか。横幅も出てきて、精神面も大人になり、牝馬のようだと言われた頃のサイレンススズカはもういない。

レースは、もちろんサイレンススズカが逃げる形。1000m通過タイムは57.7でハイペースなのだが、後続がサイレンススズカを倒そうとそれに着いて行ったため見た目にはそれほどのリードは無かった。

4コーナーで少し差が縮まり、グラスワンダーが勝ちに行く競馬をする。サイレンススズカが息を入れる一瞬を狙った競馬だ。その勝ちに行く競馬をしたためにグラスワンダーは5着に破れてしまった。

直線を向いてから、完成したあの『逃げて差す』競馬でまた突き放す。そこに唯一差を詰めてきたのはエルコンドルパサーだった。それでも、2着エルコンドルパサーに2馬身半差の勝利。エルコンドルパサーは3着に5馬身差を付けていて、勝ち馬の強さを際立たせている。

エルコンドルパサーの蛯名正義騎手のコメント「影さえも踏めなかった」は有名。また、エルコンドルパサーが海外挑戦を決めたときの「国内の勝負付けは済んだ」というコメントも、もう再挑戦することすら叶わないサイレンススズカが抜けた存在だったと言っているようにも感じる。

1000m通過タイム57.7という一見ハイペースに見える逃げだったが、武豊騎手は「この馬は1000m通過タイム56秒台でも行ける馬だから今日はゆったり行けた」というコメントを残している。あのエルコンドルパサーに完勝する内容でも、まだサイレンススズカには余裕があったと言ってのけたのだ。それも、調教不足で回避が検討されるような状態で。

毎日王冠の勝利でこの年6連勝となったサイレンススズカは、春から目標に置いていた天皇賞・秋に駒を進めることになった。さらにその天皇賞・秋の先には、海外に挑戦する意思も示していた。

天皇賞・秋 沈黙の日曜日

迎えた天皇賞・秋。1998年11月1日、サイレンススズカは1枠1番、1番人気と、とにかく1が並んでいた。もちろん次に続く着順の数字も1だと、疑いようがなかった。

この時も圧倒的な1番人気で、単勝オッズは1.2倍。ただ、この当時の天皇賞・秋には1番人気は勝てない、逃げ馬は勝てないというジンクスがあった。

オグリキャップが3度1番人気に推され負け、メジロマックイーンは1着入線からの降着、トウカイテイオーも、ライスシャワーも、ビワハヤヒデも、あのナリタブライアンも、サクラローレルも、バブルガムフェローも、このような今にも名が残るような馬たちが、1番人気で敗れていった。

そのジンクスを、過去に前例がないような競馬をしてくれるサイレンススズカが打ち壊すのかどうか、そこにも注目される1戦だった。

また昨年の勝ち馬エアグルーヴは、牝馬は勝てないというジンクスを武豊騎手鞍上で打ち破った。武豊騎手が今度は1番人気と逃げ馬のジンクスも打ち破ってくれるのではないかという期待もあったという。

断然人気に推された理由には、逃げ馬に有利なグリーンベルトもあった。勝って当然、何かが起こらない限り負けない。まさにそんなレースだった。

レースは、いつも通りの大逃げを打つ形。このレースにはこれまで逃げて結果を残してきたサイレントハンターもいた。そのためサイレンススズカが大逃げを打ち、10馬身ほど離れた2番手にサイレントハンター、そして3番手以下は更に10馬身近く離されているという縦に非常に長い珍しい隊列になった。

1000m通過タイム57.4という、サイレンススズカとしては走りやすいくらいのペース。だが、大ケヤキの向こう側に魔物は潜んでいた。

大ケヤキを過ぎた、3,4コーナー中間あたりでサイレンススズカが止まる。『サイレンススズカ、サイレンススズカに故障発生です!なんということだ!4コーナーを迎える事なく、レースを終える武豊!沈黙の日曜日!』この実況フレーズはサイレンススズカの最期を表す言葉として非常に有名。

診断の結果左前脚の根骨粉砕骨折と分かった。これは治療方法がなく、予後不良で安楽死処分を取るしかなかった。

スタートも馬場も行きっぷりも良く、何もかもが良過ぎた結果なのかもしれない。3コーナーを回るまで完璧で、息が入り始めて本当に良い感じだった。「原因は分からないのではなく、ない。」事故の原因を問われた武豊騎手はそう答えた。

あれだけのトップスピードであれだけの骨折をして転ばない馬はなかなかいない。僕を守ってくれたんじゃないか。武豊騎手はそう思ったという。

確かにあの時もしサイレンススズカが転んでいれば、武豊騎手はその落馬による負傷と後続の馬に踏まれてしまう負傷、この2つは避けられなかった事だろう。

それとは逆に、これは完全に俺個人の考えだが、もしサイレンススズカが転んでダメージを分散させられていたら、もしかしたら予後不良にまでは至らなかったんじゃないか。そんな風にも考えてしまうことがある。

あれだけのトップスピードで、骨折してからも完全に他の馬が通り過ぎて安全になるまでは我慢して脚を地面に着けている。これが無ければ、何か変わったのだろうか。いやしかし、武豊騎手の安全をサイレンススズカは選んでくれたのだろう。

サイレンススズカの物語は、この天皇賞・秋で終わる。観る者全てを魅了する大逃げという競馬で圧勝劇を繰り広げてきた稀代の快速馬は、結局誰にも連勝を止めさせないまま逃げ切ってしまった。

「2秒は離して勝っていた。」武豊騎手はレース後そう呟いた。

1年遅れの天皇賞・秋

沈黙の日曜日から1年後、サイレンススズカの名前はまた挙がることになる。

サイレンススズカの事故が起きた1998年天皇賞・秋から1年後、武豊騎手は自身に初のダービー勝利をもたらしてくれたスペシャルウィークに騎乗し天皇賞・秋に挑んだ。

この時スペシャルウィークは前走で大敗していて、状態もイマイチという感じの調教後コメントだった。その年の天皇賞・春を勝っていたものの、前走の大敗と状態不安が影響して4番人気まで人気が落ちていた。

そんなスペシャルウィークで、大外から差し切ってレコードタイムでの勝利。スペシャルウィークはやっぱり強かった。そうファンに思わせてくれるような、ダービーの勝利を思い出させる素晴らしい脚だった。

この勝利後、インタビューで武豊騎手は「サイレンススズカが背中を押してくれた」と語った。やはり武豊騎手もあの事故から1年のその日、サイレンススズカのことを思い浮かべずにはいられなかったようだ。

サイレンススズカの強さ

サイレンススズカは、ただ気分良く走っていただけ。それが、他の馬基準で考えるとハイペースの走りになっていたというだけだ。自分のペースで走らせてもらえるようになってから、サイレンススズカの才能が発揮できるようになった。

サイレンススズカは、ハイペースで逃げたらバテるという競馬の常識を覆した馬だった。常識に無理に押し込んだら才能が潰れてしまう、そんな馬だった。 

「人より前にいて、後ろの馬よりも良い脚を使ったら負けるわけない。これは僕の理想だな。」と武豊騎手が語るように、サイレンススズカはサラブレッドの完成形と言っても過言ではないのかもしれない。

誰よりも早く1コーナーを迎え、2,3,4コーナーと後ろを突き放し、最後の直線でさらにまた突き放す。そんな競馬をする馬に、一体どうやって勝てというのだろう。

あの最後のレースとなった天皇賞・秋も、武豊騎手の「2秒は離して勝っていた」という呟きは本当に、ただそう思って言っただけなのだと思う。

あのまま無事に走り切れていれば、1秒6馬身とされているため12馬身差、つまり記録では大差勝ちと表示される圧勝で、しかもレコードタイムで勝っていたと俺は思う。願望でもなんでもなく、あのままサイレンススズカがいつも通りの直線の脚を使っていればそうなる。

サラブレッドの配合を考える際、スピードというのは重要な観点となる。もしこの圧倒的スピードを持つサイレンススズカが無事に種牡馬入りしていれば、今の日本競馬界は大きく違っていた可能性だってある。

実は連勝中に、アメリカから種牡馬として購入したいと申し出があったという。そのことからも、サイレンススズカのスピードはあのスピード競馬のアメリカですら欲しがる、世界レベルのものだったということは間違いない。

もし日本で種牡馬入りしていれば日本の種牡馬の勢力図が変わっていたかもしれないし、もしアメリカに渡っていれば世界の種牡馬の勢力図だって変わっていた可能性すらある。サイレンススズカは、それだけの可能性を持った馬だった。

終わりに サイレンススズカの再来は現れるのか

沈黙の日曜日から20年経った今でも、大逃げをして大差勝ちするというシーンを観ると、まるでサイレンススズカのようだと表現する人が多々いる。

そういう馬がそういう勝ち方を出来るのは未勝利や条件戦までで、重賞でそのような勝ち方を見せてくれる馬はほとんどいないわけだが。

それでも、そういう馬にサイレンススズカの姿を重ねる人が多いということはつまり、サイレンススズカの再来を見たいという人が大勢いるということだ。俺ももちろん、その中の一人だ。

だけど、サイレンススズカは『逃げて差す』という唯一無二の脚質を持っていた。おそらく、サイレンススズカの再来と呼ばれて実際に同様の活躍をしてくれるような馬が今後出てくる可能性は、限りなく低いだろう。

それは馬の能力という面でもそうだし、日本の最近の競馬が益々スローからのヨーイドンになっていることも理由に挙げられる。

スローからのヨーイドンというのは、日本においてはそれが勝ちやすいからどんどんと使われている戦法だ。サイレンススズカのハイペース逃げというのは、今の日本競馬の傾向の真逆をいく戦法ということになる。

サイレンススズカの当時としてもあのハイペース大逃げは珍しかっただろうが、今後はもっと出て来づらい戦法になってくるだろう。

そう考えると、サイレンススズカの再来を見たいという夢は決して叶ってくれないのかもしれない。

それでも、俺はサイレンススズカの再来を待ちたい。それが、俺が競馬を観続ける理由だからだ。